日本の建築のアイデンティティを如何に持つべきかを、吉田五十八の作品と手法にみる
『竹田邸』の改修の3年後に、『住宅特集』(2016年11月号)の連載「家をつくる図面」の取材を受けました。聞き手は大井隆弘氏で、藤原徹平氏と前島郁雄氏へのインタビューが行われましたが、その内容は次回に。
東京藝大の光井渉先生の元で吉田五十八の研究をなさっていた大井氏と、黒川哲郎は、吉田建築を通して接点があったとのこと。そんなこともあり、今回は、黒川の「戦後,建築家の足跡 吉田五十八」(建築文化1989年6月号)を読み直してみました。
「1913年、吉田は東京美術学校図案科第2部(第1部の工芸・図案科から1903年に分離独立した建築科)に入学する。‥‥建築意匠は岡田信一郎、木庭恒吉が図案を、今和次郎が工芸制作を担当する‥‥私が藝大に入学したのが1962年で、吉田はその1年前、67歳で退官しているが、赤い漆の図面ケースの中にオーダーや飾り文字の図版など、ボザール的様式教育の教材が残っていた」
と、藝大建築科の原点の残証を語ります。そして、吉田数寄屋の出発点を決定的に性格付けるものについて、
「近世の数寄屋は、形骸化しつつあった長押を取り除き、塗り物の角柱を自然木に、漆喰塗りの壁を中塗りである土塗りとすることで、書院造を田舎屋風に変様し完成したが、それによって美的には洗練されたものの建築的には恣意的に未完成なものに留められた。柱や壁は、仕上げばかりか保護膜までも取り除かれてしまい、地震や台風の少ない京都で生まれ育った建築を東京にもち込むには、裏に加えなければいけない工夫が生じる。吉田の数寄屋に壁が多いのはそのためであり、その壁は、東京に火事が多いことやその法規制を考慮して大壁となり、そこを画布として絵画的構成として「付け柱」がなされた。これは生来保守的な職人、ともすれば「木割り」という伝家の宝刀を抜きたがる数寄屋大工に対して、建築家がイニシィアティブを獲得するためにも有効であったはずだ」
と分析しています。そして1931年の『関谷邸』から1936年の『吉屋信子邸』にみる吉田の試みを紹介し、吉田建築の近代性について、
「吉田は従来の数寄屋を壊しつつ再構築したが、それは個々の手法やボキャブラリーを再解釈したり、近代語訳することからなされたのではなく、数寄屋という美的に完成されたものを利用しながら、わびさびといった情感を離れた、それ自身が持っていた近代的な面を育てて美しく住みやすい住宅をつくる、すなわち生活感覚を美に昇華することであった。しかしそれ以上に、ヨーロッパの初期ルネッサンス建築に匹敵する日本建築の独自性への希求が、その出発の当初より色濃く流れていた。それは「間」と「透き」という伝統的空間意識の近代化として発露される。「間」は、能や邦楽に特有なリズム感、日本美術の構図やプロポーションに独特な感覚を作りだしている。一方「透き」は、モノそのものが透けて背後のモノが見える「透明」に対して、前のモノの存在にもかかわらず、背後のモノの存在やその形や様子を認識したり、空間の奥行や連続性が強調されるようなモノとモノとの関係である。‥‥コーリン・ロウは、「透明性/虚と実」でコルビュジエのガルシュ邸を「虚の透明性」によって構成されているとしているが、この「虚の透明性」こそ「透き」であり、日本が近代建築に与えた最も重要な空間認識のひとつである。吉田が、近代建築の機能主義に共感を持ちその情報に敏感であったものの、惹かれるものを感じなかったのは「実の透明性」に対しては空間を感じなかったからではないだろうか」
と、吉田の空間感覚論を語り、続いて吉田の手法を具体的に、
「吉田建築の「欄間の吹放ち」「床の間の落し掛けと袖壁の連続」「床天井の変化」は、近世数寄屋から脱却し、純粋に空間構成のもの、その流れをつくりだすためのものとなっている。‥‥その後も雁行という伝統的な平面手法の中で、壁や建具を介在させ、そこを刺し貫くように視線を対角に走らせたり、‥‥部屋の一隅に小壁を入れて空間の分節を明確にするとか、欄間と一体の建具をつくるなど、部分と全体が相互に貫入し合う関係になるための工夫を実に一作一作終生絶えることなく創作し、さまざまな表現を生み出している。‥‥見付けを全く隠した敷居や枠、横桟ばかりの障子、畳の縁を細くするなど「線」に対するこだわりは、「間」の感性のたゆみない研鑚の生みだしたものであり、ジャポニズムとして、日本が近代絵画に与えたものを、日本において近代的なものに発展させさせたといえよう」
と、解題します。そして『大和文華館』や『外務省飯倉公館』『大阪ロイヤルホテル』と続く「近代建築の日本化」に触れ、最後に中国建築にオリジンのある「寺院建築の日本化」について『成田山新勝寺本堂』や『中宮寺本堂』などの作品を通して述べ、吉田建築の独自性とその位置づけを語ります。
「吉田の作品は、初期から完成度が高く、その手法が際立ったものであるため、単に近世数寄屋に対する新数寄屋の大成者の印象が強い。しかし仔細に調べていくと、吉田はまぎれもなく近代の思想の持ち主であり、その背景には、洋式建築のもつアカデミックな視点、すなわち建築の本質的な部分に直截に迫る視点を、色濃く保ち続けてきたことも知るはずだ。この視点こそ、近代建築が早期に見失っていたものであろう。おそらくその解体と再構築を同時進行させる手法は、分離派が本来目指していたものであろう。‥‥こうした作業のうえに、吉田が表現しようとしてきたことは、日本の空間特性に基づいた近代的な構成的建築表現であると思われる。
それゆえ、吉田は建築界の中で全く独自な位置を築き、近代日本建築史の座標の外に居続けることになったのであろう。これは吉田のような本質的なものづくりにとっては、また藝大のような小さなスクール出身者にとってはむしろ賢明であった。ヨーロッパの歴史の延長に日本の近代を載せようとする大きな流れの中では評価の与えようもないし、その枠組みの中では異端者にしか見えなかったであろう。しかし今日、外から日本への新たな眼差しと日本から外への眼差しとが交錯する中で、我々建築家が自らの立脚点を否応なしに見つめなおさなければならない時期が来ている。そこでは必ず、吉田が目指し続けてきた作業の意味が大きく浮かび上がってくるはずである」
と、結んでいます。黒川が語った「今日」は30年前ですが、吉田の近代への視点を、脱近代の時代にこそ学ぶべき、と鼓舞しているように思われます。
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