「なされなかった木の建築の近代化」と「野生の思考」
年明けにある展覧会に行って以来、『日本の木でつくるスケルトンドミノの家』の18頁で黒川哲郎が書いた「なされなかった木の建築の近代化」という文言が気になっていました。そこで、退任本『建築のミッション』の「Ⅲ.日本の木の文明と軸の建築文化」の最終章「4.木造住宅の近代化」を読み直してみました。
「明治期から戦後へと引き継がれた住宅構法は、『和風家屋の貫構法』と『民家の差し鴨居構法』のふたつです」
との前提の上で、先達による耐震構法研究の歴史を語ります。
「都市の一般的な家屋は、襖や障子で仕切られ、外周部にも壁の少ない『書院造りの流れ』が続きますが、1891年の濃尾地震の被害から、木造家屋の耐震構造化は焦眉の課題となりました。1893年、『通し貫の全廃と土台の設置』が提案され、1894年の酒田地方の震災報告書では、『土台また脚固めの設置、筋交、洋小屋化、屋根の軽量化、継手の添え板ボルト継ぎ、三角形不変の理(=トラス)、太針鉄(=釘)の使用』などが対処策とされ、1898年には初めて洋釘が製造されました。
佐野利器は、1906年にサンフランシスコ大地震を視察し、撓みの大きな日本の木造架構の利点を認めながらも、日本の近代住居の理想をRC造とします。その上で、木造家屋については、横架材勝ちの剛な矩形架構を、方杖を用いて透徹します。
ところが、1919年制定の『市街地建築物法』では、『建物には適当に筋交または方杖を設ける』との緩やかな規定しかなされぬまま、1923年、関東大震災を迎えます。その後続発する大地震のさなかの1930年、土木出身の海軍省建築局長の真島健三郎は『柔構造』を唱えます。けれども、田邊平學は、1933年の著作『耐震建築問答』で、『まとまりの良い外形、縦横に配したなるべく多くの間仕切壁、上階の間仕切り壁の配置と重なる下階での間仕切り壁増、階段の筋交化』など、『壁構造の原則』を称え、『剛構造』化を先導していきました。
こうして戦後の『在来工法』へとつながる実験や理論化が進む中、1934年、瞬間風速60mの室戸台風が襲来し、多くの小中学校の木造校舎が倒壊します。当時の『和風家屋の貫』は、『水貫』と呼ばれる水平の表示板ほどに薄く、土壁に塗り込められ、構造というよりは下地材という扱いとなっていたため、『和風家屋のホゾ差しは、仕口が簡単に崩壊して危険』とされたのです。
田邊らは、1936年、『木造柱梁接合部の強度並びに剛度に関する実験』を行い、『剛さ(=強度=破壊し難さ)や剛度(=剛性=撓みにくさ)は、方杖が優れている』と評価します。一方で『梁の上下を羽子板ボルトで柱に緊結させた仕口(=羽子板締めホゾ差し)を、有効モーメント・最大荷重ともにホゾ差しの2倍、剛度も初期変形においては4倍を得て、従来の手法中、最も推奨される方法』と高く評価します。竿をボルトに換えて柱の断面欠損を解消したこの接合法は、まさに『近代の差し鴨居』です。
翌1937年、『交番水平荷重を受くる木造無壁骨組の実験』を行います。交番とは、交え番うこと、つまり佐野利器のいう矩形架構であり、戦後の『在来工法とともに登場する軸組』です。実験の結果を、『方杖は、剛度は上がるものの柱との接合部で柱が破断する。筋交は、剛度はさらに高く、また圧縮筋交に破断を起こすが、引張筋交の仕口が破壊するまで若干荷重に耐え得る』とする一方、『近代の差し鴨居』を『仕口で破壊するまで変形を続け、方杖の無い仕口補強法としては最善』と高く評価します。
1940年、『木構造骨組の実用横力分布係数並びに計算法に関する一、二の問題』で、各接合部の破壊に至るまでの撓み(=変形)量を問題とし、筋交と方杖と羽子板締めホゾ差しを比較します。そして『羽子板ボルトで緊結させた仕口の半剛接ラーメンの計算式』まで載っていて、『近代の差し鴨居』の可能性を示していました。したがって、室戸台風に被害によってその危険が明らかとなった方杖の『水平分布係数を0とする』ことも考えられたにもかかわらず、『耐力がないわけではない』と方杖を残します。一方で『近代の差し鴨居』に『半剛接ラーメンの可能性』をみながらも、水平分布係数(=壁倍率)を与えていません。おそらく、長引く大戦によって木造の枯渇が進む中、『細い部材でも成立する剛な壁構造』へと急いで舵を取らざるを得なかったのでしょう。
木材の樹種別の各種強度を示す『許容応力度』(1936年から1980年)をまとめた森徹は、高等建築学第8巻『木構造』のなかで、『木構法は古来我が国において極めてよく発達した建築構造ではあるが、美術的技巧的方面の発達であって、力学的見地から見ればむしろ幼稚であった』と述べています。この指摘は至当というべきです。『新興木構造』の研究者たちは、『近代化=剛な建築』の轍から外れることなく、『壁構造化』へと向い、世界に稀有な木構法『差し鴨居の半剛接軸組』は忘れ去られていきました」
と、戦前の研究への疑問を投げかけます。そして戦後の建築行政へと続き、
「木材も大工も窮乏する中での膨大な住宅不足の解消に、安全で迅速かつ経済的に応えるために、1950年の『建築基準法』の制定とともに『在来工法』と呼ばれる新しい木構法が登場します。簡易なRC造の布基礎を打って土台を敷き、柱を立て、柱頭に梁桁からなる横架材を載せて『軸組』とし、建物の自重(=鉛直力)のみを支えます。柱と梁桁との接合部は込み栓に代えて、鎹(カスガイ)を用いたホゾ差、即ち蝶番のように回転するこう接(=ピン)の仕口で、水平力分布係数は0です。地震や強風の力(=水平力)に対しては、『枠組』ともいえる『軸組』に、筋交などを組み合わせた耐力壁を配して変形を抑制します。当初より『在来工法は壁構造』だったのです。『壁倍率』は、田邊らの『横力分布係数』に相当し、件の一連の実験が木造の近代化を目指した新しい構法の準備であったことがわかります。そしてこれを『在来』と呼んだのは、『伝統の軸の姿を残しながらも、壁を主体に近代化した剛構法』との考えと思われます。このため1973年に『枠組壁工法(=ツーバイフォー)』を基準法に適用する際、『在来』を『軸組構法』とみなして、『枠組壁工法』との比較がなされます。
こうした誤解が生じたのは、1959年の伊勢湾台風で大きな被害を出した木造について、以降20年余の木造建築研究の休眠時期があったためと思われます」
と締めくくっています。この流れの中で、黒川自身の木造構法と関わりを、『建築のミッション』の「まえがき」で、
「1981年に『木造建築技術開発プロジェクト』に参加した私は、集成材に出会い、『大断面軸組』への手がかりを得、1984年に、民家の『差し鴨居』の仕口を知り、断面欠損の解消や構造計算式化などその現代化を図り、『木造ならではの半剛接軸組構法=スケルトンドミノ』を開発しました」
と述べ、「Ⅰ.スケルトンドミノ」の初章では、
「構造設計のパートナー濱宇津正氏が、学会の図書館で、田邊らの『軸組の実験報告書』を見つけてくれて、イメージは大きく飛躍を遂げることになりました。‥‥小胴付きの短ホゾで鉛直荷重を柱に伝え、田邊らの「近代の差し鴨居」の羽子板ボルトを梁桁に埋込んだ上下2本の引張りボルトに代え、計算は田辺らの式を参考に濱宇津氏が実践的な式としたもので、その後もケーススタディや実験によってパラメータ(=媒介変数)を発展させつづけています」
と語っています。そのプロセスや作品の解題については、このブログで何回か取り上げさせていただきましたし、これからも触れていきたいと思っています。
そして2011年の東京藝術大学陳列館の退任展「森林資源活用をすすめる木構法スケルトンドミノ[プロトタイプ]展」で、1/5模型を提示します。それから1年を要して書き上げた『建築のミッション』の「あとがき」で、クロード・レヴー=ストロ-スの『野生の思考』に言及します。
「芯材が大きい杉は、近代科学や技術の『栽培思考』に馴染みにくい素材です。しかし大工の『野生の思考』によって使いこなされていたばかりでなく、その軽さ、温かさ、柔らかさ故、桶樽や船倉や茶箱は、豊かな醸造や交易や茶文化を築いてきます。そして正倉院の御物が唐櫃で守られてきたことは、スギは『ありあわせ』どころか、天与の恵物の『器』の材であることを思い起こさせてくれました」
突然のようでしたが、既に「まえがき」で、
「松などの輸入材に比べて強度が低くバラつきの大きな杉は、集成材とするより、大径材を生かした丸太や大断面製材などの『無垢材』として、十分に余裕を持たせて活用する方が、『杉ゆえの、杉でしかなし得ない、安全・可変で、健康な住宅や建築』を実現し、再植林のための付加価値を生じさせ易いと気づきました」
と述べています。おそらく、「木の建築の近代化」は、「なされなかった」のではなく、「なしてはならぬもの」と、気付いたのではないかと思われてなりません。
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