2010年の「天野太郎の建築展」の冊子の中で、黒川哲郎は『天野先生を想う』という一文を寄せています。
「吉村順三先生の招請で、1961年10月に藝大へいらした天野先生は、ほどなく図書館・絵画棟・彫刻棟の設計に携わり、ライトとアアルトの綯い混ざった有機的建築スタイルのミニマル化を図ります。
1962年入学した私の学年は、天野先生にとって、藝大での建築教育の初歩から携わった最初の学生にあたり‥‥2年生の住宅課題では、ライトの厨房を中心に、入り口、居間、食堂を大きく周るプラン集が配られました。‥‥住宅の「ありよう」を教えていただくと同時に、先生の住宅や建築に「人間の意識の流れや結びつきとともにある空間」の探求を感じました」
と、当時の東京藝大での教育(樋口清先生から日本のタリアセンと称された)を回顧しています。そして黒川が大学院で天野研究室を志望した理由を
「先生は、早稲田大学(理工学部建築学科卒業ですが)『文学部』卒、會津八一の弟子を標榜する文人で、その漂わせる仙遊の世界に惹かれたのかと思い返しています」とし、戦後ライトの日本人弟子第一号として渡米した理由を
「ライトの建築理念の中に、東洋の老荘的哲理、無為自然・脱俗遁世、つまり「精神の自由を求める生き方」をみておられたと想像します」
と結んでいます。
『建築のミッション』の【近代のサーキュレーションプランとLDKとコアの誕生】の中で、
「ライトは、有機的建築で知られるその建築理念に、敷地の自然・箱の解体・材料と構法・民主主義のための建築の4つを挙げ、「箱」を解体するために「火」と向き合います」
と記して、【場の関係性の作法=ブリコラージュ】へと続きます。
改めて、會津八一の書や早稲田大学東洋美術史講義抜粋などを見返すと、レヴィ=ストロースの「野生の思考」とどこかシンクロしているように感じられ、黒川哲郎の設計思考の形成過程が理解できるように思われます。
天野先生については、住宅建築2015年4月号の特集「天野太郎の建築あるべきようは」で、橋本久道氏の[遠藤新と天野太郎が育てた花]に譲ります。
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