重源の工夫した貫

重源の工夫した貫

NHK-BSの「英雄たちの選択 よみがえれ大仏 ~61歳からの挑戦~」(2024年5月20日放映)は、東大寺を再建した重源でした。資金の乏しいなか全国を勧進した一輪車の復元など、プロジェクトマネージャー・重源の苦心譚や、「大仏様」と「和様」の違いなど盛り沢山な内容でした。

日本の木でつくるスケルトンドミノの家』(2014年 平凡社)の前半部分の章立てで、黒川哲郎がもっとも力をいれたのは「重源の工夫した貫」の見開き頁です。サブタイトル「軸の建築の柔構造化と木の調達」のもとに、

「木材の枯渇が進み、太い材を手に入れることが難しい状況のなか、源平の争乱で焼失した『東大寺』の再建にあたった重源は、「礎石の上の柱」の転倒を防ぐために、中国の南宋から移入した「貫」によって「柔構造化」を図ります」

と述べ、その習作『浄土寺浄土堂』と『東大寺南大門』の架構について、

「『浄土寺浄土堂』の、梁間・桁行とも3間(18.2m)の堂は、16本の柱がすべて直接屋根を支え、方一間(ほういっけん)の内陣は「入れ子」となって通肘木、挿肘木と虹梁を架け渡しています。

『東大寺南大門』は、梁間10.8m、桁行28.8mの空間を18本の柱が屋根まで2層分伸び、「貫」がそれらを連係しています。通肘木、挿肘木を組み合わせた六手先(むてさき)は、貫と一体になって深い庇を支えます。

重源は、直径1.5m、長さ約30mの太くて長い木の調達を、遠く周防国(山口県)の佐波川(さばがわ)流域まで求めたのみならず、貫と肘木を同じ寸法にするなど、独自の工夫を加えています。「経済的で安全な建築」をめざし、技術の合理化を重ねていったのです」

と、建築家・重源の矜持を強調します。

この本の2年前に上梓した『建築のミッション――スケルトンドミノとスケルトンログは林業と建築を結ぶ』(2012年 鹿島出版会)では、

「天竺様が直線的なのは、木材の枯渇が広がるなかで得た貴重な大径材を、無駄なく最大限に性能発揮させて用いたためと思われます」

と、その合理性を述べると同時に、

「『浄土寺浄土堂』は、「入れ子」になった内陣の通肘木と挿肘木とに虹梁を架け渡し、阿弥陀三尊の来迎の姿を高く見上げるように結界しています。『東大寺南大門』…六手先は、貫と一体となって深い庇を支え、梁間中央の門扉上部のみにとどめられた内法貫が、彼岸の幽遠な世界を結界しています」

と、僧・重源のつくる宗教的空間が、架構によって生まれていることに触れ、

「重源は、1167年入宋し、柱と貫で直接に屋根を支える構法を学びますが、当時の南宋は、戦乱によって木材が枯渇し、燃料はコークスに代わり、建築軸部」も、煉瓦状の磚(せん)の「組積」へと代わっていたと思われます。それ故『浄土堂』『南大門』の構造は、重源の独創が多いのではと想像されます」

と、天竺様が重源のインベンションであることに思いを馳せます。

黒川の座右の書のひとつに、吉田鉄郎著・薬師寺厚訳の『日本の建築 その芸術的本質について』(昭和50年 東海大学出版会)があり、早速「Ⅴ 仏寺」の章を紐解いてみると、

「12世紀の終り、禅宗建築の様式の導入の前、…重源によって今一つの南中国の建築様式が輸入され…大変単純で直線的で明快で経済的であった。重源がこの建築様式を選んだ主な理由は、恐らくその工費の安かったことによるのだろう。王朝時代には豪華な仏寺は朝廷または貴族によって建設されたが、今や建築費の寄付を民衆から求めねばならなかった」

と、記され、この段落の前では、

「当時の華麗な仏寺の中で、藤原道長の建てた法成寺(ほうじょうじ)は最も巨大で、実に光りに輝く藤原文化の記念碑で…完成に一族の富と力のすべてを尽くして献身し、計画と建設を自ら指導した…九体の阿弥陀の像を安置する阿弥陀堂は、浄土を思い起こさせるように魅惑的に華麗に装飾された。…宇治の平等院にある鳳凰堂は…道長の息子、頼通によって建てられ…宮殿建築である寝殿造りに強く影響され、芸術と自然の調和的な統一を実現している…定朝作の阿弥陀の像の上には極めて精巧に作られた天蓋が下り…仏教の天国の華麗な姿を実現させている…鳳凰堂は日本的性格の建築の代表的傑作として認められているが、その本質的価値は建築的な面よりは工藝的な面にあり、元来現世的であり通俗的なものである」

と、建築とパトロネージの関係を喝破しています。

富裕な貴族社会が崩壊した鎌倉時代にあって、わずか20m四方の『浄土寺浄土堂』において、阿弥陀三尊立像に、西側の蔀から夕陽を浴びせることだけで浄土の世界を描き出してみせたのは、建築家・重源の「意地」だったのかもしれません。

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