「新部品考」考 プロローグ――部分への思い入れ

「新部品考」考 プロローグ――部分への思い入れ

「建築知識」に連載した『新部品考』は、1980年5月号の「プロローグ」から始まって、石田信夫氏が13回を、続く1981年7月号から黒川哲郎が16回を重ねて1982年12月号で最終回を迎えたものです。もう40年も前ですから、まさに『旧部品考』と呼ぶべきでしょう。

ただ、最近「黒川さんの作品は経年劣化していない」「初めは着心地が悪いけど、いつのまにか身体に馴染んでくる仕立服のようだ」とのお言葉を耳にしました。また坂牛卓氏がブログで、「上野動物園前交番の横を通るたびに黒川哲郎は何を思ってこういうデザインをしたのだろう、いまだに謎である。30年間近く不思議に思い続ける建築もそうはない」と書いてくださっています。何か背中を押されたように思われ、『新部品考』を読み返してみました。

「このシリーズで私が展開しようとしている部品化論は、生産論ではなく、設計の方法論、ひいては空間論であり、さらに煎じつめれば、現代における装飾論といえるかもしれない」

と、書き出して、長谷川堯氏がその著書『建築旅愁』で「装飾を、部分の全体に対する反乱」ととらえていることから、

「部分には、この装飾(古典的装飾)という表れ方と、もうひとつ部品という表れ方があると思う‥‥古典的装飾は、手作り的であり、建築において唯一ともいえる“人間の内面的なものの直接的表現”の場であり、他方部品は、量産的であり、機能との結びつきも強く、より社会的である」

と、一旦、装飾と部品を対峙しているとしながらも、

「十分に時間をかけて設計された部品は、部分の位置にとどまらず、時には装飾にも似た人間臭さを強く漂わせるものとなるはずである」

と、提起します。そして、

「私は、設計するにあたって、部分からの発想をいつも大切に考えているつもりであり、部分からの全体構築を最も重要なテーゼととらえている。ガラスブロックのオリジナルデザインを手がけたのは、部分のひとつの単位をデザインすることによって、建物の内部空間を満たす光の質を独特なものにして、その全体性を決定しようとしたからだ」

と、自らの設計思想を述べるとともに、このシリーズ「新部品考」の目的を、

「部分の集積としての全体ではなく、あるいは全体から規定された部分でもない、よりビビッドでアクティブな建築像を、部分と全体の中で解き明かすことである。つまり、硬直化した全体を解きほぐし、ディテールに縛られ、装飾に浮気してうさをはらす部分を、「部品」という言葉で再生、オルガナイズしようということである

とします。同時に、

「建築の部品化は、建物の表情を退屈なものにすると考える向きもあろう。
‥‥事実、合理化のための部品化によってつくられた超高層ビルやカタログによるアッセンブル作業に堕した設備設計などをみると、そうした危惧はあながち不当ともいえない」

と述べ、「一方で」として、『ポンピドーセンター』のガーブレットの繰り返し、そして『セントラルベヒーア』の巨大な部品ともいえるユニットに言及し、建築の内外にすさまじい迫力や、オフィス空間に大家族的な住居的な雰囲気をもたらしているのは、「部品だ」と断言します。そして、

部品への思い入れが、設計密度にとどまらず、素材に対する認識や愛情も反映されるし、生産技術の伝統や地域性も如実に描き出す。その結果、部品はゴチックやアールヌーボーの装飾とも似た人間臭を漂わせてくる。‥‥この人間臭は、部品に生命力を与え、感じさせ、装飾が持っている、自然との融和や当意即妙、軽妙洒脱といったことを部品にとっても可能にし、さらには装飾が否定している機能を美に高揚させている」

と締めくくっています。

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